倒壊情報あり【2018年3月28日更新】
非常に残念なことに太陽小学校の体育館が2018年の1~3月の雪の重みで倒壊してしまったという情報が2018年3月25日、Twitterを駆け巡った。
太陽小学校の体育館が雪の重さに耐えられず倒壊
— 廃墟_太郎。 (@haikyo_tarou) March 25, 2018
残念な限りです。 pic.twitter.com/EXaqx01Qtj
羽幌炭鉱
— 𝓜𝓲𝔂𝓪𝓿𝓲 (@_Miyavi_s) March 25, 2018
太陽小学校の体育館が雪で倒壊してしまいました。 pic.twitter.com/dUrXI5XC03
他の人の情報では残った校舎の方も雪の重みで倒壊しかかっているという情報もあり、少なくとも近づいて中に入るのは相当危険な状況のようだ。
以下は倒壊前に書いた記事である。
冒頭にも書いたが状態が非常に良かっただけに悔やまれる部分はある。もちろん仕方はないのだが。
非常に珍しい円形体育館の遺る小学校廃墟
太陽小学校と言えば、円形の体育館がいい状態で残っている国内でも珍しい部類に入る廃墟だろう。
円形の体育館と言えば、北海道内に円形校舎として有名な沼東小学校(北海道美唄市)がある。
現在、私達に知られている太陽小学校は、元々、羽幌炭砿の近くにあった。
1940年(昭和15年)12月8日に、太陽尋常高等小学校として開校。場所は現在のこの場所ではなく、太陽産業の社宅の一部を割り当てられたものを校舎としていた。そのような環境であったため、体育の授業を行うようなグラウンドや体育館はなく、おおよそ教育を行う環境ではなかった。
昭和の激動の時代を経て、1947年(昭和22年)4月、一時は太陽国民学校という名前だったが、太陽小学校に改称。戦時中の流れから様々な形を経ているものの、太陽という名前が使われ続けていたのは、創業者に由来する太陽鉱工の存在があったことが理由だ。
名称の変遷と共に、校舎も様変わりを続けた。1945年(昭和20年)9月7日に、建坪が388坪という広い敷地に新校舎が完成。体育館のほうは1962年(昭和37年)に完成した。
- ダイヤモンド・ドーム型鉄筋組み
- 防火補強コンクリートブロック積み
- 直径32.7m
- 広さ839.5㎡
- 中二階にベランダ
- 舞台装置
- 放送設備完備
といった作りになっており、当時としては都会の学校に負けない設備と性能が備えられていた。
1960年(昭和35年)には、全校生徒数が1000名を超え、留萌管区内でもトップレベルの学校にまで成長した。
ただ1966年(昭和41)年12月に木造校舎だったものが、現在遺されている鉄筋3階建ての校舎に新築されたが、すでに閉山の波が押し寄せており、そこから4年の時を経て閉校となった。
その後、昭和54年に町営の宿泊施設として「羽幌緑の村」として新たに生まれ変わるが、それも平成12年に閉鎖となっている。
周辺の炭鉱跡地を見れば観光地として活用したいという気運は感じられたものの、人口減少と長い不況、そして娯楽のあり方が昭和の頃と大きく変わってしまったのか、訪れる人も少なかったのかもしれない。
体育館に入って全景を見渡すと、この体育館の魅力にすっかり取りつかれてしまう。体育館は長方形であることが普通である私達にとっては、そこが楽しさ溢れた学び舎であることが感じ取れるからだ。
見上げればプラネタリウムのような体育館の骨組みが幾何学模様のように並んでいて、大変美しい。
建築当初も珍しいと言われた円形の体育館は昭和を経てもなお、人を引きつけるものをもち続けている。
所在地
羽幌町の中心地から20km。40分ほど車を走らせれば太陽小学校に到着する。
道中は雪の積もるシーズンを外せば、道も広く走りやすい道であるため意外とすんなり行くことができる。
むしろ羽幌町に行くまでが大変である。北海道以外の地域からここへ向かうには千歳空港から行く人が多いかもしれないが、その場合だと車で3時間はかかる。
スケジュールはしっかりと立てておきたいところだ。