うさぎと廃虚で溢れる非現実空間、大久野島
現在の大久野島が持つイメージとしては「うさぎだらけの島」というものをお持ちの方も多いだろう。
2010年までは広島の地元の人だけに知られるような島だったが、2010年に入ると動画サイトをはじめ、うさぎの愛らしい姿と一緒に島が紹介され始め、旅行会社もツアーパックを組むなどしたことから、一気に人気が爆発し現在では有名な観光スポットして知られることになった。
2013年時点では約700羽程度のうさぎが生息していると言われているが、現時点ではもっと増えているのではないだろうか。訪問した2018年には、船から降りればすぐにうさぎの群れを確認することができるなど、どこを歩いてもうさぎがいたような状況だった。
それとは別に、以前からあるイメージとしては「毒ガス島」の異名で知られる通り、太平洋戦争で使用された毒ガス兵器の製造のために様々な施設が存在していたという側面だ。
毒ガスの製造に使われていた電力を賄うための発電所施設、毒ガス貯蔵庫、そして島を防衛するための砲台の跡地が現在でも残されている。
島全体で見た場合、これほどの規模で廃虚とうさぎがいる島は世界的に見ても珍しいだろう。そんな大久野島は2つの要素で非現実空間を演出していると言ってもいい。
ちなみに島内にいるうさぎは、毒ガス実験のため使われていたうさぎの末裔という噂もあるが、実際には毒ガス製造施設が処分された際に殺処分されている。
現在、島中にいるうさぎ(アナウサギというらしいが)は、1971年に近隣の小学校が飼っていた8羽のうさぎをこの島で放されたものが繁殖し、現在の数になったと言われている。
アナウサギは侵略的外来種ワースト100に選ばれているため、愛らしい姿ではあるものの見方によっては笑えない話である。
発電所跡
大久野島にある発電所跡は、毒ガスが製造され始めた1929年に稼働を開始。以降、終戦の1945年まで稼働していた。
ディーゼル発電機8基で重油を燃やして発電を行っており、島内の毒ガス製造施設に使われていたと言われている。
終戦後、アメリカ軍によって軍施設が解体された際に、この発電所内にあったディーゼル発電機も外に持ち出され、かつての占領地であったフィリピンなどに送られるなどした。
ちなみにこの発電所は増改築があり、最初は第一発電室と呼ばれる施設のみだったが、その後、大量の電力が必要となったため、天井も広さも第一発電室の3倍はあろうかという第二発電室が作られた。
中部砲台
中部砲台跡は島の北側、あるいは東側などいくつかのルートから山に登る方向に向かい、島の中腹にも当たる山頂近くに位置する砲台跡だ。
毒ガス島という島にはあるものの、施設としてはこちらのほうが古く、1900年初頭に作られたと言われている。
瀬戸内海の要所を護る要塞として作られたものの、第一次世界大戦が勃発すると砲台は取り外され、戦地に送られたそうだ。
砲台跡の地下施設はいくつか入口があるものの、中でつながっているような構造だった。
なお2018年に発生した風雨災害により、島のいたるところが崩落してしまっており、この中部砲台へ向かう道も、道が大きく崩落している箇所があるため、近づくことができない。
所在地
島へは忠海港から定期的に出ている観光船に乗り、10分程度で島に到着する。
便によって第一桟橋、第二桟橋のどちらかで下船することになるが、発電所跡に近いのは第二桟橋側である。
とは言え、島自体が小さな島であるため、徒歩でのんびり回っても朝からなら1日ですべてを回ることができるだろう。
島内にある休暇村ではレンタサイクルの貸出も行っているので、利用したほうが便利だ。
ちなみに島内のうさぎに菓子類などを与えることは禁止されている。