【廃校の記憶】徳地町立柚野小学校が語る昭和の面影(山口県山口市)

山口県山口市の山間部にひっそりと佇む「徳地町立柚野小学校」は、かつて地域の子どもたちの学び舎として賑わっていましたが、2002年の休校以降は時間が止まったように廃墟として残されています。
木造の平屋校舎、色鮮やかな壁画、渡り廊下や遊具など、今なお当時の息遣いを感じさせる遺構が多く残っており、当時の息遣いを感じることができます。
歴史の軌跡
創設と変遷
柚野小学校の歴史は明治期にまでさかのぼります。もともとは「第八区大山小学校」として誕生し、その後は地域の分教場を吸収しながら歩みを進めました。
1949年には「柚野村立柚野小学校」として新たに位置づけられ、さらに1955年には町村合併の流れの中で「徳地町立柚野小学校」と改称されました。
地域の中心的な教育機関として、多くの子どもたちがここで学び、地域に根差した小学校として親しまれてきました。
移転の背景
1950年代半ば、この小学校には大きな転機が訪れます。1956年、地域の暮らしと発展に深く関わる「佐波川ダム」が完成したことで、もともと釣山地区にあった旧校舎は水没地帯に含まれてしまいました。
そのため学校は移転を余儀なくされ、現在も残る笹ケ滝地区に新たな校舎が建設されました。この移転は、地域にとっては生活の基盤が大きく変わる出来事であり、柚野小学校はその象徴的な存在として再スタートを切ったのです。
閉校
しかし、時代の流れとともに山間部の過疎化は進行しました。昭和から平成にかけて児童数は減少の一途をたどり、平成11年度にはわずか4人の児童と3人の教員だけという小規模校になっていました。
そして2002年(平成14年)、ついに休校となり、その後は廃校として歴史に幕を下ろしました。閉校式では地域の人々が集い、百年以上にわたる学び舎の歴史を惜しみながら見送りました。
そのまま現在まで校舎は放置され、廃墟として姿を残しています。
廃墟としての現在
木造平屋の校舎風景
現在も残る校舎は、木造の平屋建てで非常に素朴な佇まいをしています。
山々に囲まれた自然の中で、草木に覆われながらも直線的な校舎の姿が確認できます。
窓ガラスは一部破損しているものの、当時の黒板や掲示物の痕跡が残っており、往時の面影を色濃く残しています。
グラウンドには雑草が伸び、校舎を取り囲む景色は「時間が止まったままの学び舎」を強く印象づけています。
小規模校ならではの親しみやすさと寂寥感が同居する風景です。
印象的な校門の壁画
柚野小学校を語る上で欠かせないのが、校門脇の壁画です。
そこには「希望の21世紀へ一歩」と銘打たれ、児童たちが手を取り合いながら山並みを背景に歩む姿がタイルアートで描かれています。
色鮮やかなその壁画は、閉校後20年以上が経った現在も鮮烈に残っており、当時の未来への希望を象徴する存在です。
廃墟という寂しい姿の中にありながらも、この壁画は今も訪れる人に「子どもたちの笑顔」と「未来への夢」を思い起こさせる力を持っています。
廃墟としての魅力
徳地町立柚野小学校が廃墟として注目される理由は、その「時が止まったような情景」と「地域の記憶を封じ込めた存在感」にあります。
木造校舎は昭和の面影をそのまま残し、窓枠や廊下、黒板などが静かに風化していく姿は、どこか懐かしくも切ない気持ちを呼び起こします。また校門の壁画や遊具といった要素は、子どもたちの笑顔が確かに存在していた証として、今なお強烈なメッセージを放っています。
さらに、ダム建設による移転という地域の歴史的背景や、児童数の減少といった社会問題の縮図でもあるため、単なる「朽ちた建物」以上の価値を持ちます。
柚野小学校は、過疎地域の現実と、そこにあった希望や思い出を今に伝える「生きた廃墟」といえるのです。
なお近くに住む住民の方からインタビューをとることができました。谷間にあるこの場所は普段から風の強い場所で、特に台風が発生した際は危険を感じるほどだといいます。
もしこの廃墟が台風で崩れてしまい事故に繋がらないかと心配する声がありました。